普段は、なにかしら編み物の記事をブログに書いているのですが、今日は全然関係ない話。
長文です。
息子は2011年3月11日に生まれました。
東日本大震災のおこった日ですね。
東京の病院で出産しました。
出産したのは午前中で、地震が起こった時、私は一人でベッドの上に横たわっていました。
息子は新生児室。
夫は徹夜での立ち合い出産になったため、睡眠を取るべく自宅に帰っていました。
14時46分。ぐらぐらっと揺れが起きて、どんどんそれが大きくなって、経験したことがないレベルの揺れになりました。
私は動けないまま「ああ、やるべきこと(出産)が終わったから、死ぬんだ」と思っていました。
悲観的。
大きな揺れが収まると、すぐさま病室のドアが開けられました。
助産師さんが「ドア開けっ放しにしておきますね、赤ちゃんは無事ですからね! でもいつでも逃げられるようにしておいてください」と言いにきてくれました。
それで私は出産のダメージが残る中、荷物をまとめました。
夫と連絡をとろうにもつながらないですし、夕方にはまた病院に来る予定だったのでこちらは放置。
新生児室に向かいました。
病院の中は比較的落ち着いていました。
災害に強く作られているせいでしょうか。
東京の震度は5強。東北に比べれば弱いです。
新生児室で、息子の様子を見に来た旨を伝え、助産師さんから息子を受け取りました。
本人は地震のことなど知りません。
まだ目も開かないし、寝ているのか起きているのかもわからない。
頼りなくて、まだ真っ赤で、へにゃへにゃした赤ん坊。
皮膚はしわしわで、自分の子だから可愛いけど、ちょっとグロテスクでもあります。
せっかく来たから、ということでそのまま授乳室で授乳の練習を開始しました。
授乳中も余震がありました。
その都度、新生児室のベッドをしっかりと押さえ、上に覆いかぶさるようにしている助産師さんたち。
私も少し、息子を抱く腕に力がこもりました。
救急指定の総合病院だったので、「ただいまより外来受付を中止します」というアナウンスが流れました。
けが人への対応のためでしょう。
このあたりで、私の中に緊張感が生まれました。
その後、夫と合流。
息子の顔を見せてから、夫と二人で病室に戻りました。
病室のテレビは普段はテレビカードを入れないと見られないようになっているのですが、緊急事態のためか自由に見られるようになっていました。
どの放送局も地震のニュースです。
津波の迫る映像は現実感がなく、テロップに「若林地区海岸に200~300人の遺体」という文字が出ても、そんな馬鹿な、と思っていました。
出産という非日常と、大地震という非日常がいっぺんにきて、とにかく現実とは思えなかったのです。
メールや電話はつながらないこともありましたが、Twitterはつながっていたので無事の報告をしました。
Twitterからは帰宅困難の声が多く、私の出産がなければ夫もそれに巻き込まれていたでしょう。
「病院は安全だから大丈夫」と夫に伝え、日が暮れる前に帰宅してもらいました。
街の様子もまだ分からないし、暗くなってからは危険だろうと思ったからです。
一人になると肝が据わります。
地震でいろんなことが心配です。
私はかつて福島に住んでいたことがあり、親戚の家も友人の家もあります。
仙台に住んでいる友人もいます。
でも、今自分がすべきことは息子を守ることだけ。
そのために体の回復に努めること。
翌日からは母子同室です。
病院から出されたご飯をしっかりと食べ、出産と地震の興奮で疲れた体を眠らせて、私の2011年3月11日は終わりました。
3年後の今日。3歳の誕生日。
息子の大好きな苺のタルト。
(自転車で帰ってきたら崩れてしまいました、ごめん息子)
息子の大好きなトッキュウジャーのおもちゃ。
(新しく始まった戦隊物です、電車好きの息子の心を鷲掴んでいます)
息子が生まれてきてくれて、私の人生は面白くなりました。
とてもかわいくて自分が産んだように思えません。
私は無宗教ですが、神様からの授かりものだな、と考えてしまいます。
大変なことももちろんありますが、その辺は仕事と一緒な気がします。
嫌なことも嬉しいことも一緒くたになっていて、自分を成長させてくれる存在です。
お誕生日おめでとう。
君の人生が笑顔に満ちたものでありますように。
私が東日本大震災を忘れることはないでしょう。
すべての魂が安らかに眠れますように。
にほんブログ村
長文です。
息子は2011年3月11日に生まれました。
東日本大震災のおこった日ですね。
東京の病院で出産しました。
出産したのは午前中で、地震が起こった時、私は一人でベッドの上に横たわっていました。
息子は新生児室。
夫は徹夜での立ち合い出産になったため、睡眠を取るべく自宅に帰っていました。
14時46分。ぐらぐらっと揺れが起きて、どんどんそれが大きくなって、経験したことがないレベルの揺れになりました。
私は動けないまま「ああ、やるべきこと(出産)が終わったから、死ぬんだ」と思っていました。
悲観的。
大きな揺れが収まると、すぐさま病室のドアが開けられました。
助産師さんが「ドア開けっ放しにしておきますね、赤ちゃんは無事ですからね! でもいつでも逃げられるようにしておいてください」と言いにきてくれました。
それで私は出産のダメージが残る中、荷物をまとめました。
夫と連絡をとろうにもつながらないですし、夕方にはまた病院に来る予定だったのでこちらは放置。
新生児室に向かいました。
病院の中は比較的落ち着いていました。
災害に強く作られているせいでしょうか。
東京の震度は5強。東北に比べれば弱いです。
新生児室で、息子の様子を見に来た旨を伝え、助産師さんから息子を受け取りました。
本人は地震のことなど知りません。
まだ目も開かないし、寝ているのか起きているのかもわからない。
頼りなくて、まだ真っ赤で、へにゃへにゃした赤ん坊。
皮膚はしわしわで、自分の子だから可愛いけど、ちょっとグロテスクでもあります。
せっかく来たから、ということでそのまま授乳室で授乳の練習を開始しました。
授乳中も余震がありました。
その都度、新生児室のベッドをしっかりと押さえ、上に覆いかぶさるようにしている助産師さんたち。
私も少し、息子を抱く腕に力がこもりました。
救急指定の総合病院だったので、「ただいまより外来受付を中止します」というアナウンスが流れました。
けが人への対応のためでしょう。
このあたりで、私の中に緊張感が生まれました。
その後、夫と合流。
息子の顔を見せてから、夫と二人で病室に戻りました。
病室のテレビは普段はテレビカードを入れないと見られないようになっているのですが、緊急事態のためか自由に見られるようになっていました。
どの放送局も地震のニュースです。
津波の迫る映像は現実感がなく、テロップに「若林地区海岸に200~300人の遺体」という文字が出ても、そんな馬鹿な、と思っていました。
出産という非日常と、大地震という非日常がいっぺんにきて、とにかく現実とは思えなかったのです。
メールや電話はつながらないこともありましたが、Twitterはつながっていたので無事の報告をしました。
Twitterからは帰宅困難の声が多く、私の出産がなければ夫もそれに巻き込まれていたでしょう。
「病院は安全だから大丈夫」と夫に伝え、日が暮れる前に帰宅してもらいました。
街の様子もまだ分からないし、暗くなってからは危険だろうと思ったからです。
一人になると肝が据わります。
地震でいろんなことが心配です。
私はかつて福島に住んでいたことがあり、親戚の家も友人の家もあります。
仙台に住んでいる友人もいます。
でも、今自分がすべきことは息子を守ることだけ。
そのために体の回復に努めること。
翌日からは母子同室です。
病院から出されたご飯をしっかりと食べ、出産と地震の興奮で疲れた体を眠らせて、私の2011年3月11日は終わりました。
3年後の今日。3歳の誕生日。
息子の大好きな苺のタルト。
(自転車で帰ってきたら崩れてしまいました、ごめん息子)
息子の大好きなトッキュウジャーのおもちゃ。
(新しく始まった戦隊物です、電車好きの息子の心を鷲掴んでいます)
息子が生まれてきてくれて、私の人生は面白くなりました。
とてもかわいくて自分が産んだように思えません。
私は無宗教ですが、神様からの授かりものだな、と考えてしまいます。
大変なことももちろんありますが、その辺は仕事と一緒な気がします。
嫌なことも嬉しいことも一緒くたになっていて、自分を成長させてくれる存在です。
お誕生日おめでとう。
君の人生が笑顔に満ちたものでありますように。
私が東日本大震災を忘れることはないでしょう。
すべての魂が安らかに眠れますように。
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息子さん、お誕生日おめでとうございます。
私にも月末で三歳になる娘がおり、思わずコメントしたくなりました。
震災の日に出産されたのですね。その日の様子が手に取るようにわかりました。ただでさえ出産後は身体だけでなく、心も不安定になりやすい時期で、その中での出産や産後の日々は不安だったと思います。私は検診から帰宅して、部屋で赤ちゃんのおくるみを編んでいた時でした。関西でもかなりの揺れを感じ、揺れで気分が悪くなってしまい、ラジオから入ってくるニュースを聴いて更に不安に感じたことを覚えています。
子供が無事に生まれてきてくれて、大変ながらも無事に育ち、今日も寝る場所があり、温かい食事があり、家族や仲間がいる当たり前のことに感謝です。
編み物記事も楽しみにしています。